伏見人形

伏見人形 素朴さとふくよかさ 

朝日新聞社(1965年)刊 「京都・伝統の手仕事」より


古い狂歌に

 人形の西行いかに花見んと群つつ通るふしみ街道

とある。江戸時代、京都・伏見の里は街道筋として栄えた。人形屋が何十軒も建並び、西行法師、牛、ホティさまなど、さまぎまに形どった土人形が売られていた。歌にまでよまれたほど、伏見人形は旅人の人気者だった。それがいまでは、デパートにも名店街にもみやげ屋にも、ひとつとして姿を見せなくなった。土人形の双璧(そうへき)といわれる博多人形の国際的にまで鳴響いた人気の高さにくらべ、いったい伏見人形はどこへいったのか――。

 あったあった。たった一軒。あわただしく移り変る商店街からとり残されたように、黒ずんだ旧家。京都市東山区本町二十二丁目に伏見人形づくりの伝統を受継ぐ唯一の人、六代目「丹嘉」窯元、大西重太郎さん(五三)がひっそりと仕事を続けていた。本町通を境に西側に母家、東側に仕事場。

生地おこしの作業をする大西さん


昼間から板敷きの仕事場にすわり続ける大西さんの両手先は、長年の土いじりですっかり色がついていた。

 「伏見人形は土人形の元祖です」と大西さんが語るその由来は――。古代、土器をつくる職人を土師部(はじべ)といったが、垂仁天皇の時代に朝廷からこの職に任ぜられ、伏見深草の里に住んで、土器や土人形をつくりだしたのが伏見人形の始りという。全国で百種類近くもある土人形のほとんどが伏見人形の系統をひいているのも事実。現にその影響力の大きさは、東北から中国地方まで各地で古い伏見の人形が出土されていることでもわかる。幕末から明治にかけてはもっとも栄え、幾多の人形師を生んだ。しかし、その後はセルロイド製など近代的なおもちゃが幅をきかせるようになり、大西さんがこどものころ、大正十二、三年にはまだ十数軒は残っていた人形屋も昭和にはいるとはとんどなくなってしまった。 

 その最大の原因は、時代にマッチした″売れる人形″への切替えをしなかったことだった。しかし考えようによっては、それが伝統を守って今日に至ったともいえる。伏見人形は、その形が写実を離れた独創的なところによさがある。伏見人形のトレードマークともいわれる「まんじゅう食い」 「俵牛」をはじめ、さまざまな形があるが、どれもがデフォルメされたふくよかな、こっけい味すら帯びた人形である。博多人形が学者の知恵まで借りて、俳優とか美人画を形どった″新時代″の人形を研究、性格を大きく変えていった中で、伏見人形だけは伝統にかじりついてきた。

 そして残されたのが一軒の伏見人形店と先代の遺産である約三百個の人形の原型だった。「この原型だけは貴重な文化財です。きょうび、こんな良質の土を使った原型はでけしまへん」と大西さんはいう。二百年以上はたった木のように堅い精巧な原型。伏見人形の特徴が全部彫りこまれたような独特のかたち。だから大西さんは新しい形はほとんどつくらない。この原型を忠実に人形にしていく。製造の過程は、粘土を原型からとった型に入れる(生地おこし)作業→型の仕上げ→乾燥(七、八百度の温度で窯で焼く)→着色→完成。ときたま原型をこわしてしまうことがある。身を切られたように思うそうだ。

 大西さんも伏見人形の″体質改善″を試みたことはあった。旧制第二工業(現在の伏見工高の前身)の彫刻科に学んだだけに、西洋の彫刻をまねた奇抜な人形をつくっては父親に「こんなものあかん」と一喝され、口論もした。着色面でも研究、父の亡きあとはかなり古来の人形とは違った着色に変えてきた。「しかし、伏見人形はやはり古代の土の体臭がほとばしる素朴な人形で

 

あるべきなのです。原型だけは変えようがなかった」そうである。ところで大西さんの後継者がいない。こどもは娘さんばかり三人で、長女は「人形づくりの婿取りはごめん」と嫁いでいってしまった。「将来のことはわかりまへん。あと二人の娘にいい婿でも釆てくれればねえ。でも成行きにまかせるより仕方がない」とさびしそうである。

伏見人形の古い文献はほとんどなく、記録の上では徳川中期から、その創始者として鵤(いかるが)幸右衝門という話がよくでているが、郷土玩具研究家の田中緑紅氏らは架空の人物としている。伏見・稲荷山周辺から出る粘土が材料だが、実際の人形づくりは現在の深草辺にかたまっていたといい、深草人形ともいえる。現在、粘土は乙訓郡向日町方面から採取している。明治以降にでたおもな文献は郷土人形研究家の有坂与太郎著「伏見人形」(昭和四年)と田中緑紅著「伏見人形の話」(昭和三十七年、緑虹叢書)

 

この文・写真は1964年11月7日の朝日新聞京都版に京都支局員の取材記事として掲載されました。

なお、転載・複製は朝日新聞社の承諾が必要です。

 

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