伏見人形

伏見のまんじゅう喰い人形

―失われゆく土人形に生きる―

松村 茂(歴史読本1971年7月号より)

京都市伏見区在住


「丹嘉」窯元のたたずまい

 西行も牛もおやまも 何もかも 土に化けたる伏見街道 一休 (注)

 私のふるさと京都伏見には、‥日本一古い伏見人形がある。全国百種以上もある土人形ほとんどが、わが伏見人形の系統を引いているという。

1966年松村氏に贈られた

丹嘉の饅頭喰い(12cm)

これは決して誇張ではなく、わが国の玩具研究家も認め、定説となっている。

 伏見人形の代表的作品と目されている饅頭喰いが、宮崎県、大阪府、愛知県にもその類型が見られるし、また俵を背負った牛の類型は、三重県、奈良県、愛知県などにも見られる。あるいは山形県米沢市の通称相良人形は、原型も着色も伏見人形とまったく類が等しい。その他各地で見られる実例から、伏見人形が、いかに全国に流布しているかを物語っているといえる。

 ところでこの伏見人形を、今日継承し、守っているのは、伏見にはもうニ軒しかないという。まことに淋しい限りではあるが、そのうち、もっとも古い伝統を持った六代目「丹嘉」窯元大西重太郎さん(五十九歳)を訪ねてみることにした。

 伏見は稲荷。商いの神様として有名な伏見稲荷神社は、国鉄奈良線稲荷駅、また京阪電鉄稲荷駅付近にある。その大きな紅い鳥居の手前を北へ徒歩で十分ばかり進むと、ガラス戸に二つ三つの伏見人形を飾った家がある。目立たない普通の民家である。しかし、その静かなたたずまいが、返って伝統の重さを感じさせている。

 工房へは、その向いの露路を入ったつき当りである。裸電球の下で大西さんは黙々と、ただ黙々と「饅頭喰い」や「飾馬」「犬」などの製作に当られている。一つ一つの手作り、そばで着色の手伝いの婦人が四、五人やはり黙々と作業を進めている。京都市東山区本町二十二丁目。静寂だけがそこにあった。


 

 伝統を担う二軒の工房

 まず大西重太郎さんから伏見人形がどのようにして継承されてきたかを尋ねた。

 明治初期に稲荷前には二十三軒の人形製造問屋があったという。大正期に入ると四十二軒になり、百人がこれに携わり稲荷人形組合も結成された。そのうえ伏見人形は、全国土産品として広く知れわたり原型に類似した土人形が各地で見られるようになった。ところが、セルロイド製などの外国おもちゃ、近代的な博多人形などが幅をきかせるようになると、伏見人形製造店も次々と新しい商売に切り替えていくようになった。時代の趨勢とはいえ、このままでは、と思った五代目(重太郎さんの父親)が重太郎さんに、「お前だけでも日本元来の伏見人形を続けてくれ。もしお前も止めたら、庶民のなかから生れたこの素晴らしい工芸遺産は絶えてしまう。たのむからどんなに苦しくとも、この伝統を守って欲しい……」 と訴えたという。

 この父親の執念に、はじめてことの重大さを悟った六代目重太郎さんは、その時以来どんなことがあっても伏見人形の原型の伝統を受け継ぎ守り抜く決意を竪めたそうである。

 日本の玩具の原型は、こうして人々の知らない執念と決意によって守られたといえる。 第二次世界大戦中に窯元の焚木が無いので母屋を壊してそれにあてたという。そんな昔話にも六代目重太郎さんの伏見人形に対する造詣と愛着の深さを感ぜずにはいられなかった。

 裏の納屋に人形の原型があるというので、そこに案内してもらった。

 「この原型は、貴重な文化財です。今日、こんなによい質の土を使って、これほどの原型をつくることはできないでしょう」 と説明されて、差し出された「舞をまう少女」「饅頭喰い」「俵牛」「坐り猿」の大きな人型原型に、二百年を経てた伝統の息づきが、煤(すす)けた味わい深い土色のなかにほのかな暖かさとして伝わってくる思いがした。実に精巧で、そして素朴である。

 重太郎さんは新しい人形は作らないという。すべてこの原型を継承していく。そこに伏見人形の特色があるという。全国でもその例を見ない味わいの深さとは、意外とこのへんにあるのかも知れない。重太郎さんはただ忠実にこの原型を守って来た。だからこそ今日の伏見人形がある。それは”当然”のことかも知れない。しかし長い伝統に培(つちか)われて来た重みは、そんな一片の言葉の中にすらドッシリと私達の心にのしかかってくるのを感ぜずにはいられなかった。

 「子供の土産なら伏見人形でも買うて帰りいな」。その昔、大坂からは三十石船で伏見まで船にゆられ、伏見からは京橋、中書島からはじまる伏見街道、この本町通りを通って京へ入る。また京から西へ帰る人はその逆の道順を取る。そのときおりに、稲荷でこの「伏見人形」を土産として多くの人々が買って帰った。その売店は、今では稲荷神社鳥居前に一軒だけ残っている。そして工房は大西さん方と他一軒。

 江戸時代から明治にかけて、子供たちの玩具はこうした素朴で精巧なものであった。現代の子供たちはおそらくこうした玩具に見向きもしないだろう。果してそれがしあわせなのか、私には解らない。ただそれを時代といってしまうには、あまりにも淋しい感がする。

 私は大西さんから人形がつくられるまでの工程について説朋を受けた。粘土を原型からとった型に入れる(生地おこし)。そして型の仕上げ。乾燥、平均七、八百度の温度で窯で焼く。そのあと着色。一つ一つ丹念に心をこめて色を塗る。この基礎づくりから完成まで一人前に熟達しようとすれば、十年以上の経験が要るという。

 ところが重大郎さんは、「見習や技術習得にくる若い人はありませんなあ―」と淋しく語られた。その言葉の中には、伝統がさびれてゆくのをただ黙って見つめてゆかねばならない虚しさと、それをそのまま黙殺してもよいのだろうか、という焦りのようなものが混同しているように思えた。

  

 失われゆくものを偲んで

 大西家の家系を調べるのもこの伏見人形を知るうえで大切なことだと思い、尋ねてみることにした。

 文政年間の記録によれば、祖先義十郎は土偶を造り、明和四年(一七六七)六十八歳で没し、二代目新太郎、三代目金三郎と続き、文政の頃、この伏見人形は盛大になったという。四代目嘉助の時、屋号を「丹波屋」といっていたらしいが、今は「丹嘉」と称する。

 現在は六代目であるが、この六代目大西重太郎さんが最後の伏見人形師になるかも知れないという。代々受け継がれてきた伝統が、自分一代限りで絶えてしまうかも知れないという懸念は、おそらく誰にもまして、大西さんの心を痛めるに違いない。

初代に対して、あるいは実父五代目に対して、ただ黙々と人形を作る作業の中にも何かを訴えるような響きが感じられるのである。

 ここで「饅頭喰い」人形の挿話を大西さんよりうかがった。

 ある時、頭を水色に塗られた、あどけない童女が、いかにも、おいしそうな饅頭を持って、立っていた。

 「お父さんとお母さん、どっちがよい……」と尋ねた人があった。するとその童女は手に持った饅頭を二つに割って」「おじちゃん、これどっちがおいしい?」と返事したそうである。

 なかなか味わい深い挿話である。文化、文政の時代にこの話と、「饅頭喰い」人形がつくられたと伝えられている。また、この人形を室内に飾っておくと、子供に智恵がつくともいわれ、「伏見人形」の代表的作品の一つとして重宝がられている。この原型も今や黒ずんでしまっているが、かえって素朴さを醸(かも)していた。大西さんは、そんな話をする時、まるでわが子の自慢話でもするように、目を細め、実に楽しそうだ。

  稲荷山が桜の中に浮いて見える京の春、点々点と映える鳥居の紅さが、そのまま京・伏見人形の素朴な暖かさとして感じられた。

(この作品の転載・複製は松村茂氏の承諾が必要です。)

(松村茂さんは、日本ペンクラブ会員・随想や児童文学作品などを執筆 2001年7月現在)

(注)この句は狂歌であり、作者「一休」はあの有名な一休禅師ではない。

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