伏見人形

 

 

伏見人形発祥地に対する私見    広田 長三郎(「郷土玩具研究」1 郷玩サロン 1968年 所収)

 

 

 

一、はじめに

 各地土偶の源流と云われている伏見人形に就ての単行本は、従来僅か有坂与太郎氏著「伏見人形」 (昭和四年刊)・田中緑紅氏著「伏見人形」(昭和三十七年刊)があり、又咋年塩見晴嵐氏によって、やや詳しく「伏見人形」が発刊された。

 然し、いずれも伏見人形の一般的概説の域を出ず、更に深く追求・解明・記録することがこころみられていないのは、勿論文献や遺品が少ない理由にもよるが、江戸時代の爛熟した文化も、ひっそりと、これら庶民文化のささえによっている事を思えば、私達は深く探究する努力と熱意がほしいものである。

宝塔寺(京都市伏見区)山門

 

私は、かねがね昨今の社会の急変と共に、郷土玩具の調査・記録の急務を痛感しているので、特に地元在住の地理的条件に恵まれている関係上、あえて伏見人形をその対称としたのである。その発祥に就ては、従来幸右エ門説・東福寺布袋説・宝塔寺鬼子母神説などあるが、いずれも確実性がうすく、ましてその時朝・場所に就ては漠然としており、その上作者の遺品・系譜に対する保存・記録は、いまだになされていない。ので、特に地元在住の地理的条件に恵まれている関係上、あえて伏見人形をその対称としたのである。その発祥に就ては、従来幸右エ門説・東福寺布袋説・宝塔寺鬼子母神説などあるが、いずれも確実性がうすく、ましてその時朝・場所に就ては漠然としており、その上作者の遺品・系譜に対する保存・記録は、いまだになされていない。

 今回は、特に伏見人形の発祥の場所に就て、想定をこころみた。

 


 ニ、発祥地に対する従来の記述 安政年間の金森得水「本朝陶器攷証」を見ると、嘉永五年人形焼物渡世として、丹波屋亀助以下二十七軒の名が出ている。これらの子孫の現住の有無を調査してみると、丹波屋嘉焉助が今の大西重太郎家であり、菱屋宇兵ヱが今の上田平次郎家に当り、その他転業しているが、十四家の子孫が現住している。

 当時、唯販売していた家も入れると、おそらく数十軒にのぼると思われ、しかもほとんどが、東福寺より稲荷大社に至る伏見街道にそって居住していた。今より約百十年程前、伏見人形は稲荷大社附近で、作られていたのであるが、果してその発祥は、この辺であったのであろうか。

 この事に就て、有坂・田中・塩見諸氏の記述を見てみよう。

 イ、有坂氏の記述

 幸右エ門の実在を否定し、「伏見人形とは、完全な意味で云えば深草人形で、その製造人も多く京都府紀伊郡深草町に居住して、 伏見の町で製造されたものではないのである。そして往時は、これを今日の如く伏見人形と呼んではいなかった。名称の起因する所は、深草町が所謂伏見街道筋であった為め、便宜上呼んだのが最初であるらしい。此のあたり一帯は土師部の部落であって、往時土器を作っていたが、創始期に至っては明確な文献が残存しないので詳らかでない」と、記されている。

 勿論、同氏の説の如く、伏見の町で製産されたものでない事はたしかであるが、製造人は多く深草町に居住していたとの事に就ては、発刊当時、多量に生産していた丹嘉・綿治・丸八・富士忠・亀屋などは、京都市東山区にあり、又、江戸時代現在の行政区域境界と同様、伏見奉行と京都所司代の支配の境をなしていた事を思うと、深草町に限定しているのは誤りであり、ましてその創始初の場所に就ては、創始期と共に「明確な文献が残存していないので詳らかでない」、と結んでいる。 

  ロ、田中氏の記述

 「新篇日本人形史」、「大百科事典第一巻」、「工芸志料」、「三国土布袋和尚霊験略縁起」などの従来の文献を引用し、深草・稲荷・東福寺近傍と、そのままを記述し、同氏の見解は発表されていない。

 ハ、塩見氏の記述

 伏見人形の系統をなす土師器に着眼され、稲荷山西麓の坊崖・正覚町・西飯食町・がんぜんどう遺跡より出土の土師器類を以て、「土師部の土器製造の伝統は、伏見人形の「でんぼ」にその遺風が見受けられ、即ち伏見人形は古い土師部の遺業を受けついでいる云々」と記されている。勿論、焼成工程よりして、伏見人形は土師の技術的伝承を受けていることには、否定出来ないが、これらの遺跡の出土に、製作技法の異なる須恵器や瓦が、混合しているので、土師器が作られた窯跡と断定する事は出来ない。又、これら遺跡の地点は、距離的に相当離れ、的確なる伏見人形発祥地と関連を持たす事はむづかしい。

 この様に諸氏の説を総合すると、広く深草の地とするか、或は東福寺附近、或は稲荷山々麓と推定されている。従来、発祥地を確定する如き文献・出土がないので、断定する事は不可能であるが、あらゆる角度より追求する事に依って、ほぼ解明出来るのではないかと考える。

 

 

 

深草要図(広田長三郎作図)注:村上

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 三、伏見人形の前身

 扨て、各地の土人形は、瓦職人に依って創始された例が多いが、これらは相当時代が下ってからの事であり、伏見人形は前述の如く土師の系統より生れたもの故、伏見人形と土師の間の何かを追求する必要がある。

 交通不便な時代、その地に特定のものが発生するためには、技術の伝承・素材・需要が必然的に要求される。

 伏見人形は、室町時代末期庶民の勃興と共に、稲荷の土の信仰にささえられ、発生し発展したものであり、決して、忽然として発生したものでなく、何らかの進化に依って形整されたものである。

 建保二年「東北院職人歌合」に、ひとめみし、かはらけいろのきぬかつぎ、我にちぎれや深草の里、と記して、深草の土器売りがえがかれており、下って室町時代初期の「職人尽七十一番歌合」には、深草の土器・火鉢作りが出ている。恵須器の需要増加に反し、土師器は減退し、この時代になると、土器だけでなく、日用品的なものも作られた様である。更に、茶の湯の発達につれ、利久の時代には、風炉・火桶・手焙・小壷・茶器などが、深草焼として登場し、与九郎・宗三郎・金亀山などの名も出てくる。これらは、磨の少ない雲形焼であった。

 即ち、手作りによる低熱度の土師器は、ろくろによる高熱度の須恵器に押され、従来の土器だけでなく、色々の工夫がこれに加わり、或は深草焼に、或は深草細工へと、範囲を広げてゆくのであるが、この深草細工の中に、伏見人形の前身とも云うべき、でんぼ・つぼつぼ・かまかまや簡単なひねりの禽獣土偶が作られたのである。

 

四、宝塔寺の千体仏 

宝塔寺千仏堂

 

  宝塔寺は、伏見区深草宝塔寺山町にあり、深草山鶴林寺と号する日蓮宗妙顕寺派の寺で、境内に日蓮・日朗・日像三代の遺骨を納めた塔があるので宝塔寺と云う。もと藤原基経の遺志により、時平が創建した極楽寺の後身で、鎌倉時代末期真言宗より日蓮宗に改宗した時、現在の寺号に改められた。この境内にある千仏堂に安置してある千体の鬼子母神が、従来伏見人形の創始に関係あると云われているのである。

 塩見青嵐氏著「伏見人形」の中に、鎌倉末期の延慶年間に深草の山麓にある日蓮宗の宝塔寺境内に、当寺の中興日像上人が建てたという小さな堂宇がある。室内に二寸位の鬼子母神像が千体祀られている。最初の十体を上人が自ら作り、残りの九百九十体は、伏見の人形師仲間に命じ、手伝わせたという記録が、伏見人形の史料として初見だとされているが、これは今から約六百五十余年以前のことになる、と出ている。

 これは、大変な誤りで、日像上人に依って改宗されたもので、千仏堂は、同寺の十世演法院日ずい(元の字は瑞の王がしんにゅう)が、正保四年建立したのである。法統の師中正院日護は、元来彫刻に秀でておられ、これを祝って木彫の鬼子母神一体と十羅刹神十体を日ずいに贈られた。日ずいは、これを謝し、千体の小さな鬼子母神を作り祀った、と云うのである。千体仏は、高さ約七センチの土製で、型に依って作られ、表裏二枚を合せ、天日乾燥の後、極彩色した小仏である。この型に依る製作技法を見ると、土人形の基調になる様な感じがする。


 又、誠に興味あることは、同寺の江戸時代中期と思われる古文書の中に、「小工器師」として、姫宮御遊行のふし、作らせ給いしに始まると云う、宝塔寺門前伏見街道入り侯南、世変り物移りそのもとうしない侯らいしも云々、と記されている事である。

 果して、千体仏を土器師に作らせたか否は、わからないが、同寺の南に土器師が住んでいた事は事実である。 

  

 

  五、伏見人形呼称の時点

 扨て、伏見人形なる名称は、形成過程のどこからを云うべきか、が問題になる。

 各地の土人形は、伏見人形の製法を修得して創始したか、或は伏見人形自体より型を起し発達した場合が比較的多いようである。

 然し、伏見人形は、深草焼・深草細工より進化したものであることは前に述べたが、この「伏見人形」なる名称が、いつ頃から確立したかに就ては、現在判然としない。延享五年の林子蟻洲「朝鮮人来聘記」に、深草細工の唐人人形品々うり申し侯、とあり、文化四年板行の十返舎一九 「東海道中膝栗毛」にも、深草の里は家毎に焼物土細工を商う、と記され、現在のような伏見人形の形が形成されていた江戸時代末期に於ても、この様な名弥で一般に呼ばれていたのである。

宝塔寺の千体仏 左から江戸初期、明治期、昭和15年の作

 


 仮に、人形の形が作られた時より、伏見人形と呼称するとすれば、ひねりの簡単な禽獣土偶が作られた当時のものまで、伏見人形と称すべきであろうか。この事の解釈は、発祥の時期の判定にも関係する事であるが、私はやはり型に依って量産され始めた時を以て、伏見人形の創始としたい。その意味に於て、江戸時代の文献上の呼称はさておき、型に依る製作以前の土人形を、深草細工と名付ける。

 

 六、発祥地の考察 

 いよいよ本論に入るが、深草焼・深草細工の前身であり、又「歌合」に出てくる深草の土器売りの土師器は、どこで作られたものであろうか。昭和三十五年、一小学生によって、伏見区深草向畑町 国立京都病院の敷地内より、多量の平安時代末期と思われる土師器が採集された。この遺跡は、従来の深草の遺跡と異り、土師器のみしか出土しないことである。その地理的条件よりして、土師器窯跡の可能性が大きいが、未だ本格的発掘されていないので断定は出来ない。

 然し、土器売りの生産地と甚だ関連性がある様に考える。

 次に、深草焼の窯跡も現在発見されていないが、それに使用する土は、筆ノ坂・倉ケ谷で採取したと記録に出ている。この地点は、今の深草谷口町で、丁度国立京都病院の東に当たる。

 又、現在深草の土器師として、深草直違橋九丁目に、平田英太郎家只一軒継承されているが、当家はもと深草僧坊町の東に住し、寛永年間二代目権兵ヱの時に、現在地の伏見街道筋に移ったのである。この僧坊町は、宝塔寺の南、国立京都病院の北東に当たる。

 宝塔寺の古文書と云い、又これらの事例より、土師の伝承は、この附近と想定出来ないだろうか。

 前に、土器作りが、深草焼・深草細工へと変進していったと述べたが、それに依って、全く土器作りをやめたのではないのである。我が国の職業の変遷は、部(ベ)に依る専業より、多角的兼業に移り、更に近代化に伴い専業化してゆくのである。

 宝暦四年の平瀬徹斎「日本山海名物図会」の土器師の図に、深草の土器作りと共に伏見人形が並べられており、又安永七年の売卜先生「糠俵」には、深草細工の火桶・こたつと共に伏見人形が売られている図が出ている。この様に、当時は土器も作り、日用品も作り、人形類も作っていたと思われる。

 名神高速道路々線地域内埋蔵文化財発掘調査の時(昭和三十三年)、仁明天皇陵の西北、僧坊町の東南の地点より、窯跡が発見され、ここより数多くの伏見人形が出土している。

 これらは、江戸中期のものと思われるが、この附近で伏見人形が作られていた事が立証される。しかも、その北東に瓦師の群居していた瓦町・東瓦町が続いている。

 私は、土師の技術伝承を受けた土器作りが、日用品と共に伏見人形を創始したもので、その地点は、良土に恵まれ、旧大和街道に近い宝塔寺の南、瓦町の西と推定する。

 東福寺・稲荷辺に繁栄したのは、それよりずっと後の事であると思う。 従来、この地で出来た土器類や、土細工物は、稲荷へ運び売られ、土の信仰の隆盛と共に初午詣が多くなり、次第に量産の必要にせまられ、たまたま瓦の型に依る製法を会得して、ひねりより型物へと進歩していったものであろう。

 更に、江戸時代に入ると益々需要が増加し、技法が簡単なため、稲荷附近の農家がこれらをまねて、作るようになったものと思う。

 そして、後世、参詣の道筋に当る伏見街道にそって、純然たる窯元や初午目当ての時期的に作る者も生れ、庶民文化としての絢爛たる伏見人形の花が開くのである。

  

 七、結 び

 若干の資料を以て、大胆な推定をなす事は、誠に危険千万であるが、従来伏見人形の発祥地に就て漠然としており、又現在の製作地を以て発祥の地と考えられている向もあるので、これを究明すべく調査の結果の中間報告をしたので、更に新らしい事実が発見され、一層正確なものになる事を願う次第である。

 本稿に対し、今後諸兄の指摘と訂正を期待すると共に、終りに深草の考古学に造詣深い小川敏夫氏の助言に、厚く謝意を表す。

この文は「郷土玩具研究」1 郷玩サロン 1968年・昭43 所収の記事として掲載されました。

 なお、転載・複製は広田長三郎氏の承諾が必要です。